家畜

悲しみたいときに悲しむ 泣きたいときに泣くという行為はもう私達のものではなくなった。排泄することは悪だし、病むことは悪だし、人に迷惑をかけることは悪なので、生きるため世界に隠蔽すべきことでいっぱいになった。汚い汚物を埋めて廃棄してその肥料で育ったのが地球なんだろうか。人にとって人は装飾品や食い物になった。人の手を握ることよりもマウントをとることが大事だし、その人の手を握るときにはそれが握るに値するかジャッジすることが大事だ。弱い者を尊びフィクションとしての正義を賛美するが人は肉を食べるし、格差や階級を否定する一方でブランド物を持ちたがる。人々はこの世界を憎む一方で何よりも愛している。肯定している。この世界は美しいが支配しているものは醜い、そしてその共犯者である人々はもっと醜い。私達はいつからか資本主義のためのマシーンになった。労働し浪費し消費し社会が提供する価値観にコントロールされながら虚構を目指す、虚しいただの歯車になった。すべての人間は結局のところのびのびと放牧されながら家畜として生きたいので家畜として生きない人間を畏怖することになる。牧場経営者はもっと効率よく家畜を改良し管理したいし、家畜はもっと良い暮らしをしたいので私達は利害関係の一致した共犯者になった。めでたしめでたし。政治というプロレス。学校という洗脳。アウトサイダーは刑務所にぶち込むか、商品価値のあるインフルエンサーとしてこの世の価値観を代弁させるか、あるいは薬漬けにして身も心も金も搾取しこの世に適応させる。幸せになるためにとっとと豚か牛になろう。おいしいご飯のことだけ考えればいい。考えるべきことは世界がいつでも教えてくれる。あれはyesでこれはnoってことは、私達の頭じゃなく集合体としての世界がジャッジしてくれる。私達は歯車で蟻であなたが食べている牛と同じ家畜だ。